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世界を旅する【​「ソ連編(ロシア)」】

  • ゲキタイマン
  • 2024年3月24日
  • 読了時間: 5分

更新日:2024年4月16日

​次に訪れた国はソ連せす。イギリスへの留学が決まっていたので入学日よりも早く出立していろいろな国を回りながらイギリスに行きたいと思ったので学生の気楽さからのんびりとうろうろ旅をしました。経路は新潟からナホトカの船旅でナホトカからウラジオストックに列車で行く。そこからモスクワまでシベリア鉄道に乗るぞ!と決めていきました。船の中で知り合った同年代の日本人の方もいたので一緒に語り合っていたので船中では退屈しませんでした。ナホトカに着いて入国手続きの時に鉄砲を向けられて(実弾入り)「パスポート」と言われて手を出されたときは「冗談か?」と思ってしまいました。パスポート出すのに何でこんな真剣な目をして、何かあると撃つぞ~というようなポーズをとるんだろうか?と不思議でした。そこで「この人は何かあると撃つだろうか?」と瞬時に考えて「撃つだろう」と確信しました。「もし撃たれたらり拘束されたら日本は抗議してくれるだろうか?」と考えました。「日本は絶対に助けてくれない」という確信があったので、素直に相手の言うことに従いました。これが同じ民族性のある台湾とスラブ民族であるソ連との違いだと理解しました。そこからハバロフスクに列車で到着したら暑さを感じて「今は夏だけども北海道のまだ北にある国だから寒いと思っていたのに37~8度もあるんだなぁ~というのが驚きでした。そしてそこに住んでいる人種がアジア系が圧倒的に多かったし、白樺が列車の両側にずっと続き、その先の北側を列車から見ると「はぁ~あれが凍土か~ 家もポツンポツンしかないので、ここで死体遺棄したら永久に見つからないだろうなぁ~狭い日本ではすぐに犯人は捕まるけど、ここだったら永久に見つからないだろうと不埒な考えが思い浮かぶような見渡す限りの平地がどこまでも続くようなところでした。」コンパートメントの列車も冬が長いのかして窓は非常に頑丈で上に細長くて長方形の形をしたものでした。また、最初はシベリア鉄道に乗ってモスクワに行くぞ!思ってたのですがハバロフスクまでの景色の変わらない列車に退屈して、「こら無理・シベリア鉄道計画を変更して飛行機で行く」と簡単に変更しました。シベリアだからあんまり見るものはなかったのだけど、ミサイル群は見ました。どこ向いているのと現地の人に何とか聞いたら、日本に向いていると聞いて足が震えました。北海道と本州に向いていていつでも打てるようになっているそうです。怖~

ハバロフスクからモスクワまでは当時の飛行機では9時間かかりました。よし「モスクワ川で泳いだろ~」と思って行って見ると、現地の人達は泳いでいたのですが私には水が汚れてて泳げないだろうという感覚でしたので泳ぎませんでした。モスクワで1週間滞在しました。これがスラブ人か~というのが嫌というほど味わっちゃいました。話は飛びますが「ロシアと戦争してはダメです」「絶対に勝てません」「ロシアは戦では負けることが多い場合もありますが、結果は絶対に勝ちます」ウクライナと戦争が始まったときウクライナは絶対に勝てないよと子供たちに伝えてあげたし

「なぜだれもロシアには勝てないか」なんてことも話してあげました。「日露戦争で勝った」なんて言わないでね。あれは中国の旅順で戦っただけだから局地戦ですから。もし日本軍がシベリアまでたどり着こうとしたら、着く前に自滅してたと思います。とにかくソ連に来たかった目的は、当時米ソ対立の冷戦時代のことなので共産圏の世界のことはほとんど何が真実かがわからない時代だったので「社会主義や共産主義とはどのような世界なのか?」ということを見てみたかったのが目的です。モスクワ近郊や有名なグム百貨店やクレムリンその他公園などを忙しく見て回りました。ま当時たまたま日本人の方が自転車でヨーロッパを自転車で一周しようとしてた人と知り合いました。彼に「モスクワ市内を見て回りたいんだ」と言ったら「この自転車で回ればいいよ」といって親切にも貸してくれました。この自転車に乗ってまずは公園にそれからクレムリンへ行きました。クレムリンに入ってすぐ、数名の警官が駆け寄って来て取り囲まれました。ロシア語で色々言ってるのだけど、さっぱりわからないので警察官も困ったのか?自転車をパンクさせてクレムリンの外に出しました。そして入ってきたらあかんとそれらしき合図を送って「向こうに行きなさい」ということだと思ってホテルに引き返しました。(ホテルがすぐ近くだったのでたすかりました。)自転車を借りた彼に謝りましたら「パンクだけだからすぐ直るよ。気にしないで」と言ってもらえてホットしました。「ロシア人は自分の言い分だけが正しくて、相手の言い分は全く聞きません。話がかみ合わないと力で聞かせようとします。私たちが住んでいる世界と全く違うということをあちらこちらで痛切に感じました。」

​社会主義ていやだなぁ~と思いました。その当時はポーランド・東ドイツ・ルーマニア・アフリカ諸国からモスクワにやって来てるのを見ました。冷戦時代だったから服のセンスや好みも全然違うように感じたし、雷も爆弾が落ちたような大きな音だし百貨店のものは長蛇の列を覚悟して買わなければなりませんでした。ホテルへの帰りの途中で公園の方で母娘の3人の姿を見かけました。見るともなく見ていると、何やら大事そうに袋をあけていました。今買い物をしたものを見るのかな?と思って見ていると、その品物はパンストでした。大事そうにしてすごく嬉しそうにしていました。それを見て自分は安心しました。共産主義といってもそこで暮らしている人達の喜怒哀楽は私たちと同じだ思いました。共産主義や自由主義といっても国の体制が違うだけで人の暮らしの喜怒哀楽は全世界共通だろうと思ったことが一番の収穫でした。ソ連を離れる時の「もうこの国には絶対に来ない」と思ったのですが、自分の意思に関係なくその後2回訪れることになりました。あと追加でモスクワの地下鉄について書いておこうと思います。モスクワの地下鉄は防空壕の役割もしてるので「まあ深い~深い~深い」です。長期滞在に備えて駅の壁にキリストの絵画などが前面に書かれてました。イギリスの地下鉄も「深い~深い~」ですが、モスクワの方が断然深かったです。またクレムリンもすごかったです。

 
 
 

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