世界中を旅して-1 台湾・ソ連(ロシア)
「台湾編」
一番最初に訪れた国は「台湾」です。母の友人関係の家に泊めてもらって2ヵ月間滞在しました。ちょうどそこに同じ年の子がいたのでその子となかよくなるようにという配慮でずっと一緒に過ごすことになりました。家は4階建てだったので4回のフロアーを与えられて身振り手振りで話をして楽しみました。彼は「自分は頭良くないので日本語は覚えられないから、あなたに中国語を教えるからこれからは中国語で話をしようということを文字で書いて私に提案してきました。じゃあということで、私が中国語を覚えることにしました。まあ~ 熱心というか?しつこいというか?中国語を覚えるまで寝かせてくれませんでした。彼は友達が多かったので多くの友達のところに連れて行ってもらって一緒に遊んだり、おばさんがホテルを経営してるので空いている一室を使ってずっと遊んだりしてました。この2ヵ月間で毎日いろな人たちと連日遊んだり食事したりしてたので100人単位では済まないくらい多くの同年代の人達と遊んでました。まだ私たちは10代後半でしたから何をやっても面白い時期でした。このグループ達と真の友達になり、今でも台湾と我が家を行き来したりしています。後に知ったのですが、この家は財閥グループの家だったので知り合った人達も大人になったときにははみんな結構な人になってます。彼も父が亡くなった後を引き継いで無事に会社も潰さないでいまでもやっています。また日本人のビックリするような人物との交流もあるのでこの人たちに紹介してもらって大企業の社長さんなんかに会ってた時期もありました。このことがきっかけで台湾に行き来することが数十年続いています。その間台湾に会社を作り家も購入して住んだ時期もあります。今は観光としては日本人にはよくないイメージが持たれている龍山寺や華西街の寺や店の人達はほぼ全て知り合いであるし長いこと交流してます。ハッキリ言って目をつぶってても歩けるぐらい台湾人以上に歴史を知っていると思います。台湾のことを話せばきりがないくらい知っています。日本では「台湾有事」なんて騒いだりしてますが、台湾や中国をよく知ってる人たちから見たら「台湾有事」なんてありえないということは誰でもわかると思いますけど・・・アメリカがアジアにおいて存在する理由づけでやっているだけだと思っています。もう少しだけ書かせていただくと、李登輝の時代中国と激しく対立していてミサイルなども飛んできました。その時に私も台湾にいました。みんな心配してなかったですよ。また、台湾と中国の金門島や澎湖諸島での爆撃打ち合いは・・・これぞ中国というように「みんな安全ですよ」その当時先に述べた友人たちがそこに配属されて兵隊に行ってましたから、体験談をじかに聞いたからよくわかりました。中国がもっと文化レベルが高くなり、さらに豊かになれば台湾の方から中国に接近していきますよ。民進党はその間の繋ぎの役割だろうと考えてます。日本人が考える感覚ではこの間の間合いの取り方はわからないと思います。最初お世話になった家が凄かったのでこの家にやってくる人たちもだいたい国の指導層の人達や会社の経営者の方たちでした。同じテーブルで食事などをして話していて本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。また、中国人のビジネスとはこのように考えるのだという思考経路も学ばせていただきました。日本ではめったにお目にかかれない方たちの名前も気軽に出てきたりしてたし、実際にその組織のトップを紹介してもらったときは、その日本企業のトップの方たちが出迎えてくれたのには腰をぬかしそうでした。何十年と台湾に行き来したりしてますが、その間日本人と会ったことは1度もありませんでした。完全に日本人の方がおられるところとは違う世界に住んでいたようです。ここでのビジネスの仕方や台湾人の物事の考え方や歴史などは授業で子供たちに話して聞かせています。中国人とビジネスするには中国人のビジネス方法や性格を学ばねば上手くいきません。日本のビジネス方法を持ち込んだら苦労します。というようなことを生徒たちと勉強しています。
「ソ連編(ロシア)」
次に訪れた国はソ連せす。イギリスへの留学が決まっていたので入学日よりも早く出立していろいろな国を回りながらイギリスに行きたいと思ったので学生の気楽さからのんびりとうろうろ旅をしました。経路は新潟からナホトカの船旅でナホトカからウラジオストックに列車で行く。そこからモスクワまでシベリア鉄道に乗るぞ!と決めていきました。船の中で知り合った同年代の日本人の方もいたので一緒に語り合っていたので船中では退屈しませんでした。ナホトカに着いて入国手続きの時に鉄砲を向けられて(実弾入り)「パスポート」と言われて手を出されたときは「冗談か?」と思ってしまいました。パスポート出すのに何でこんな真剣な目をして、何かあると撃つぞ~というようなポーズをとるんだろうか?と不思議でした。そこで「この人は何かあると撃つだろうか?」と瞬時に考えて「撃つだろう」と確信しました。「もし撃たれたらり拘束されたら日本は抗議してくれるだろうか?」と考えました。「日本は絶対に助けてくれない」という確信があったので、素直に相手の言うことに従いました。これが同じ民族性のある台湾とスラブ民族であるソ連との違いだと理解しました。そこからハバロフスクに列車で到着したら暑さを感じて「今は夏だけども北海道のまだ北にある国だから寒いと思っていたのに37~8度もあるんだなぁ~というのが驚きでした。そしてそこに住んでいる人種がアジア系が圧倒的に多かったし、白樺が列車の両側にずっと続き、その先の北側を列車から見ると「はぁ~あれが凍土か~ 家もポツンポツンしかないので、ここで死体遺棄したら永久に見つからないだろうなぁ~狭い日本ではすぐに犯人は捕まるけど、ここだったら永久に見つからないだろうと不埒な考えが思い浮かぶような見渡す限りの平地がどこまでも続くようなところでした。」コンパートメントの列車も冬が長いのかして窓は非常に頑丈で上に細長くて長方形の形をしたものでした。また、最初はシベリア鉄道に乗ってモスクワに行くぞ!思ってたのですがハバロフスクまでの景色の変わらない列車に退屈して、「こら無理・シベリア鉄道計画を変更して飛行機で行く」と簡単に変更しました。シベリアだからあんまり見るものはなかったのだけど、ミサイル群は見ました。どこ向いているのと現地の人に何とか聞いたら、日本に向いていると聞いて足が震えました。北海道と本州に向いていていつでも打てるようになっているそうです。怖~
ハバロフスクからモスクワまでは当時の飛行機では9時間かかりました。よし「モスクワ川で泳いだろ~」と思って行って見ると、現地の人達は泳いでいたのですが私には水が汚れてて泳げないだろうという感覚でしたので泳ぎませんでした。モスクワで1週間滞在しました。これがスラブ人か~というのが嫌というほど味わっちゃいました。話は飛びますが「ロシアと戦争してはダメです」「絶対に勝てません」「ロシアは戦では負けることが多い場合もありますが、結果は絶対に勝ちます」ウクライナと戦争が始まったときウクライナは絶対に勝てないよと子供たちに伝えてあげたし
「なぜだれもロシアには勝てないか」なんてことも話してあげました。「日露戦争で勝った」なんて言わないでね。あれは中国の旅順で戦っただけだから局地戦ですから。もし日本軍がシベリアまでたどり着こうとしたら、着く前に自滅してたと思います。とにかくソ連に来たかった目的は、当時米ソ対立の冷戦時代のことなので共産圏の世界のことはほとんど何が真実かがわからない時代だったので「社会主義や共産主義とはどのような世界なのか?」ということを見てみたかったのが目的です。モスクワ近郊や有名なグム百貨店やクレムリンその他公園などを忙しく見て回りました。ま当時たまたま日本人の方が自転車でヨーロッパを自転車で一周しようとしてた人と知り合いました。彼に「モスクワ市内を見て回りたいんだ」と言ったら「この自転車で回ればいいよ」といって親切にも貸してくれました。この自転車に乗ってまずは公園にそれからクレムリンへ行きました。クレムリンに入ってすぐ、数名の警官が駆け寄って来て取り囲まれました。ロシア語で色々言ってるのだけど、さっぱりわからないので警察官も困ったのか?自転車をパンクさせてクレムリンの外に出しました。そして入ってきたらあかんとそれらしき合図を送って「向こうに行きなさい」ということだと思ってホテルに引き返しました。(ホテルがすぐ近くだったのでたすかりました。)自転車を借りた彼に謝りましたら「パンクだけだからすぐ直るよ。気にしないで」と言ってもらえてホットしました。「ロシア人は自分の言い分だけが正しくて、相手の言い分は全く聞きません。話がかみ合わないと力で聞かせようとします。私たちが住んでいる世界と全く違うということをあちらこちらで痛切に感じました。」
社会主義ていやだなぁ~と思いました。その当時はポーランド・東ドイツ・ルーマニア・アフリカ諸国からモスクワにやって来てるのを見ました。冷戦時代だったから服のセンスや好みも全然違うように感じたし、雷も爆弾が落ちたような大きな音だし百貨店のものは長蛇の列を覚悟して買わなければなりませんでした。ホテルへの帰りの途中で公園の方で母娘の3人の姿を見かけました。見るともなく見ていると、何やら大事そうに袋をあけていました。今買い物をしたものを見るのかな?と思って見ていると、その品物はパンストでした。大事そうにしてすごく嬉しそうにしていました。それを見て自分は安心しました。共産主義といってもそこで暮らしている人達の喜怒哀楽は私たちと同じだ思いました。共産主義や自由主義といっても国の体制が違うだけで人の暮らしの喜怒哀楽は全世界共通だろうと思ったことが一番の収穫でした。ソ連を離れる時の「もうこの国には絶対に来ない」と思ったのですが、自分の意思に関係なくその後2回訪れることになりました。あと追加でモスクワの地下鉄について書いておこうと思います。モスクワの地下鉄は防空壕の役割もしてるので「まあ深い~深い~深い」です。長期滞在に備えて駅の壁にキリストの絵画などが前面に書かれてました。イギリスの地下鉄も「深い~深い~」ですが、モスクワの方が断然深かったです。またクレムリンもすごかったです。