次世代を生き抜くのに必要なもの
10年後位になれば中国も世界最大の消費国家になっていく道筋が見えています。今以上に世界は中国市場を求めて経済交流を活発化させようとします。ここに日本のビジネスマンたちがかかわっていかなければ日本も凋落してしまいます。その為には最低限何が必要か?といえば「英語」が絶対必要です。これはグローバル社会に入る「入口」にしかすぎませんが、これができなければグローバル社会では門前払いです。言葉ができればいいかといえばこれは最低限のツールの一つにすぎません。それを使って相互理解に努めねばなりません。中辻塾の生徒や卒塾生達は全員中国語を学んでいます。これは来るべき次世代に備えた対策です。日本がどういう形を取ろうとしても最終的には中国市場に飲み込まれていきます。
次世代を生き抜くのに必要なスキルは・・・英語・中国語・グローバル視点での物事の考え方・異文化の慣習や考え方や商習慣を理解する能力だと思います。
昔から「日本の常識は世界の非常識」なんてことがよく言われてましたがまさにこれは的を射た言葉だと思います。
アメリカでの子育て体験記

もともと日本では日能研・富士学院国際アカデミー・類塾などで塾の世界にいましたが、ある人との縁を持ちましてビジネスの世界に入って行きました。この時点で塾の世界とは疎遠になり自分ではもう終わったことと考えていました。仕事関係で台湾・韓国・中国(広州)へ月の半分は日本残り半分は海外という生活を過ごしていました。色々な国の人達とビジネスを通して語り合っているうちに「日本は大丈夫なんかなぁ?息子が大きくなった後の日本はどうなっているのかなぁ?」などと考えるようになってました。まぁ深刻には考えずにぼや~と思ってただけですけど・・・
とはいえ、息子が5歳の時から家族間の会話のツールとして3人でゴルフを楽しんでいました。家族で共通のスポーツなりをすることは家族円満にいく1つの方法だと考えたし、息子もゴルフが好きになり大人になった場合にも何かと仕事で有益性があるかも知れないと思っていました。
しかし、5歳の息子と一緒にゴルフラウンドすることは日本では難しく年に何回かゴルフするために海外に行ってました。そんなあるとき、観光客が行くゴルフ場ではなくロコの人達が行くゴルフ場をロコの人に紹介してもらいました。行って見ると見る世界が違いました。地元の子供達のゴルフクラブ集団・大人達もそれぞれが自由気ままなゴルフスタイルを楽しんでいました。
私の子供にもこんな生活をさせてあげたいと心底思いました。
でも、会社があるしそんなに自由に出来るものではないというのが現実で、いつかはということでどうにも不可能なことだと思っていました。





英語をマスターするにしてもネイティブスピーカーになるには10歳までが最適だろうしこれより年齢が上がると外国語としての英語マスターとなるので行くなら今が最適な条件であると考えました。








動機ー1
息子が8歳の時小泉政権の時でした。日本の方針が大きく舵を切ったと感じました。アメリカとの協調路線から追従路線に大きく変わりました。今8歳の息子が大学を出て働くころつまり、20代後半から40代中頃になったときには日本の社会はどうなっているのだろうか?と考えました。今よりはるかに多くのことがアメリカナイズ化されているだろうし日本の会社のトップにも多くのアメリカ人を中心とした外人がついているだろうし、中国が台頭してきて二大国並立世界に向かっていくだろうと考えました。
だったら早くからアメリカで生活を体験させてアメリカ人の考え方や習慣などを学ばせてアメリカ人と対等にやりあえる人に育って欲しいと、そしてそのことがきっと将来に役立つと確信めいたものを持ちました。
動機ー2
動機ー3

ゴルフを家族の共通の趣味にして思い っきり楽しんで子育てをしたい。
(1)日本の針路方針が明確になった
(2)英語をマスターしアメリカ生活を会得させる
(3)ゴルフを思いっきり楽しみたい
主にこの3つの理由で行こうと決断しました。
タイミングがよいから国内のようにすぐに行くというわけにはいかないし、そんなに簡単なものではないし、留学ビザでは実際の生活や日常の社会システムなんかは学びにくいので本格的に現地のアメリカ人たちと同様に生活の戦いなどをしながら子育てをしていこうと思いました。それで色々と調べた結果E-2ビザで行くことにしました。これだったら自由な活動が出来るということでそうしました。
行くと決めたら日本でのかたずけをしなければならないので、それらを慌しく行い現地での家の手当てと日本の会社の引継ぎや家の処分と何もかも早急ににしてしまいました。今まで築いてきたものは未練なく捨てるという決断も必要でした。
幸いなことに家族が私の一存を信じてくれて一緒に人生を送ってくれるということだったので、私の将来見通しが間違っていれば「死んでお詫びをする」と腹は括っていました。
そういう思いでアメリカに渡ることにました。






